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浙江は演劇の大省であり、「中国戯曲の揺り篭」と称されている。中国演劇新紀元の最初の一縷の曙光はほかならぬ浙江東南沿海都市温州で輝いた。中国で最も早く成熟した演劇形式――南戯は、ここの山紫水明、人材輩出の沃土で誕生したのである。悠久な戯曲発展史において、浙江は輝かしい一ページを書いた。浙江戯曲は人材が輩出し、佳作が相次いだ。高則誠、徐渭、王驥徳、李漁、王国維などの傑出した浙江出身の劇作家、戯曲理論家は、巨星のように輝き、歴史に名を残した。四大南戯「荊劉拝殺」、「琵琶記」「長生殿」などの不朽の作品は、今なお舞台で演じられ、香りが漂っている。浙江声腔劇種は資源が豊富で、明伝奇「四大声腔」のうち、浙江の海塩腔、余姚腔が二つも占める。越劇、京劇、昆劇、紹劇、?劇、姚劇、甌劇、湖劇、人形劇などの地方劇は、妍を競う。中でも越劇は清新優美な芸術風格で、戯曲の中でも秀でており、全国的劇種に名を連ねている。新時期以来、越劇「小百花」の台頭や「西廂記」「五女の長寿祝い」などの芸術的優良品の出現で、浙江の演劇舞台はますます生気に溢れている。
浙江は文化が発達し、文物が多く、音楽歌舞が盛んである。早くも夏代に、塗山女歌「候人猗」曲の記録があり、後世に「南音の始め」と称された。周代に浙江で流行した「越人歌」はそのうちの一曲に過ぎない。漢唐時代、浙江は有名人が輩出し、庶民の生活が豊かで、音楽、歌舞、百戯が隆盛し、種類が多い。特に参軍戯は主に浙江東部に演じられ、長期間伝わった歌舞百戯、シャーマン活動が、浙江戯曲芸術の形成と発展に有利な条件を提供し、最終的に文学、音楽、舞踊、美術、武術、雑技及び人物扮装などの各種素質の総合的芸術が形成したのである。
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既知の演劇史上有名な劇は、大部分浙江出身者の劇作家の手になるものである。
「張協状元」:現存の最も古い南戯脚本であり、宋九山書社才人の手になる(注:「九山」は当時の温州の別称である)。話の筋は次のとおりである。書生張協が科挙試験を受けに行く途中、五鶏山を通りかかり、強盗に遇う。貧女に助けられて夫婦になる。張協は科挙試験で状元(科挙のトップ合格者)になり、宰相王徳用に婿養子に取るのを断る。お嬢さんの勝花がそのため煩悶のうちに亡くなる。張協が赴任する途中、五鶏山を通るとき、恩義を忘れて貧女を剣で傷つける。後に貧女は王徳用に助けられ、その義理の娘になる。王徳用の取り持ちで夫婦はよりを戻した。(注:この劇は、温州永嘉昆曲伝習所により、再び舞台で演じられ、温州「南戯新編シリーズプロジェクト」に入れられている)。 |
「四大南戯」と称される「荊劉拝殺」
「荊釵記」:温州の書生王十朋が荊釵を結納として妻銭玉蓮を娶る。同里の孫汝権が銭氏の美貌をねたみたびたび害そうとする。後に十朋は科挙試験に赴き、「状元」になる。孫氏は権力者の宰相万俟を買収し、王の家族への手紙を書き換え、十朋を遠くへ流す。玉蓮は手紙を受け取った後、川に投身したが、退官して故郷に戻った尚書銭載に助けられる。後に夫婦が再会する。(注:この劇は温州市越劇団により再び舞台で演じられ、温州市「南戯新編シリーズプロジェクト」に入れられている)。
「白兎記」:李三娘は夫劉知遠が参軍後、兄と兄嫁の李洪一に虐待される。後に粉挽き場で子供を生み、竇公がそれを劉知遠のもとの送り育てる。16年後、劉知遠は出世し金持ちになる。咬臍郎が白兎を追って井戸端で生母三娘に出会い、一家が団欒する。(注:この劇は温州市越劇団により再び舞台で演じられ、温州市「南戯新編シリーズプロジェクト」の一つである)。
「拝月記」:金朝左丞相の子陀満興福が避難する途中で書生蒋世隆に助けられ、義兄弟の仲を結ぶ。戦乱で兵部尚書王鎮の娘が母親とはぐれ、偶然書生蒋世隆に出会う。蒋の妹瑞蓮が王夫人に出会い、義理の親子になる。王、蒋は苦難の中で夫婦になるが、父親に別れさせられる。後に蒋世隆と陀満興福は文武の状元になり、それぞれ意中の人と結婚する。(注:この劇は平陽小百花越劇団により再び舞台で演じられ、温州市「南戯新編シリーズプロジェクト」に入れられている)。
「殺狗記」:淳安の人徐田臣作。孫華、孫栄兄弟は不仲で、悪人に離間される。孫栄の妻楊月真が犬を殺して夫に忠告しようと画策する。(注:この劇は温州甌劇団により舞台で演じられ、温州市「南戯新編シリーズプロジェクト」に入れられている)。
「南曲の祖」「琵琶記」:
作者高明(1305~1359)、字は則誠、号菜根道人。詩文、書道に長じ、特に詞曲が得意である。処州録事、杭州行省丞相掾などの職を務める。上流社会の身分で戯文創作をした最初の人である。
話の筋は次のとおりである。書生蔡伯?が新婚3ヵ月で父親に命じられて上京し、科挙試験を受けて状元になる。官職を辞するのも結婚を辞退するもの許されず、牛宰相に強引に婿養子に取られる。3年後、陳留郡が大干ばつで妻の趙五娘は家で舅、姑を伺候するが不幸にも舅、姑は餓死する。五娘は髪を切り土に包み舅、姑を埋葬して、琵琶を抱えて夫を探すために上京する。夫婦は書館で再会する。後に、夫婦3人が故郷に帰り祖先を祭り、皇帝に牌坊を建てる形で表彰される。
「琵琶記」の主題思想は複雑で、蔡伯?の「三辞」(試験辞退、結婚辞退、任官辞退)と全忠全孝の問題が学会で度々議論された。しかし、劇の構造、矛盾、人物描写などでは成功しており、特に格律ではほとんど後世の伝奇創作の完全な手本であり、「詞曲の祖」と称された。元雑劇「西廂記」と共に、南北戯曲の「双璧」と称されている。
明清時代、伝奇という新興の戯曲様式が劇壇で活躍し、多くの文人作家が引き付けられ、創作をし、名家、名作が輩出し、戯曲理論でも空前の繁栄した局面を迎え、浙江の戯曲も再び輝かしい芸術の最盛期を迎えた。
宋元南戯は、温州で生まれたとき、温州方言で演じられ、伝播する過程において、次第に現地の言語と現地で流行する民謡を吸収し、明嘉靖時代までに、四大声腔が並存し競争する繁栄した局面を形成した。「四大声腔」(海塩腔、余姚腔、弋陽腔、昆山腔)のうち、浙江は二つを占める。明の人陸容の「菽園雑記」によれば、明成化年間、「嘉興の海塩、紹興の余姚、寧波の慈渓、台州の黄岩、温州の永嘉に、習って倡優となる者があり、戯文子弟と言う。良家の子であるがこれを恥とせず。」とある。浙江の演劇は盛んで、海塩腔、余姚腔はここで始まったのである。
海塩腔は、海塩で興ったことからの命名である。起源については二説がある。一つ、明代の李日華が、南宋の張?が海塩で作ったとし、二つ、姚桐寿が「楽郊私語」で元雑劇作家楊梓が音楽家貫酸斎の伝授を受け、後に海塩の楊家の歌童がそれで南北曲を歌ってその名を得たとしている。海塩腔は「全体的に静かで」引き締まっていながらゆったりと歌い、伴奏がなく、浙江官言で歌う。当時の士大夫に好まれ、堂上の毛織絨毯で演じられた。主に嘉興、湖州、台州、温州一帯で流行した。
余姚腔は、余姚で形成したことからの命名である。その特徴は、伴奏がなく他人の囃子を借りて、歌と語りの間の朗誦的な歌詞を加え、滾調と言った。言葉は通俗的で、曲を以って言葉に代わり、リズムが明快で、庶民的調子だった。当時、広く流布し、影響は江蘇、安徽二省にまで及んだ。
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その後、昆、弋二腔も浙江に伝わり、浙江の伝奇創作は空前の繁栄局面を呈し、名家、名作が大量に現れ、大豊作であった。全国に有名な劇作家に、卜世臣、葉憲祖、屠隆、沈鯨、陳与郊、高濂、史磐、周朝俊、沈?、孟称舜、沈蒙初など約50名いた。比較的に有名な作品に、「冬青記」「鷽蓖記」「曇花記」「鮫?記」「鸚鵡記」「桜桃記」「紅梅記」「嬌紅記」「貞文記」「驚鴻記」「蕉?記」「八義記」など100以上あった。そのうち舞台でよく演じられたのは、次のとおりである。湖州の人王済作「連環記」は、三国時代の司徒王允、美女貂蝉が一連の計略を用いて、悪人董卓を除いた話で、今でもよく演じられる。武康の人姚茂良の「精忠記」は宋代の岳飛が金国に抵抗した話で、浙江の各種の演劇のレパートリーである。銭塘の人高濂作「玉簪記」は、書生潘必正と尼陳妙常の恋情を描いたものであり、そのうちの「琴挑」「秋江」の二幕が最も有名である。?県の人周朝俊作「紅梅記」は、書生裴禹と盧昭容、李慧娘の愛情、婚姻の話で、各劇に取り入れられている。?県の人屠隆之の「彩毫記」は、李白を描き、そのうちの「太白酔酒」は浙江昆山の周伝瑛、王伝淞のお家芸である。
四大声腔の競争で、昆山腔が他よりも秀でてその伝奇創作が一時風靡し、浙江戯曲で多数の業績を残した。同時に、元雑劇も浙江で燦爛たる花が咲き、徐渭の「四声猿」は秀作で、深遠なる影響をもたらした。
元雑劇は後期に中心地は南の杭州へ移り、物産が豊富で景色の美しい杭州は、関漢卿、馬致遠など雑劇の大家及び珠?秀などの優秀な俳優を引き付けた。雑劇人材の南下で杭州は演芸の中心地になり、明代になっても勢いは衰えなかった。 |
統計によると、明代の雑劇で今日に伝わっているのは180以上あり、名作は大部分浙江出身の劇作家の手になるものであり、徐渭の「四声猿」は明雑劇の圧巻の作である。
徐渭(1521-1593)は、字は文長、号は天池、青藤山人などで、山陰(今の紹興)の人で、詩、文、書、画とも当時に冠たるものであり、造詣が深い。性格が真っ直ぐで人付き合いが少なく、一生不遇であった。作品「四声猿」は四つの雑劇の総称で、それぞれ「狂鼓史」「玉禅師」「雌木蘭」「女状元」である。そのうち「狂鼓史」が最も成功したものである。禰衡が鼓を撃って曹操を罵る話で、時局を風刺するものであり、現在でも舞台で演じられている。「四声猿」の出現は、戯曲創作史上、意義が深く、「自らを祖とし」、新風格を開き、湯顕祖作「牡丹亭」は大きくその影響を受けている。
戯曲創作のほかに、徐渭は戯曲理論においても業績が多い。彼の「南詞叙録」は中国最初で唯一の南戯の専門書であり、南戯の起源、発展、風格、文辞、声律、方言、術語及び作家、作品などを全面的に論述し考察した。特に民間劇の働き、地位、本色論、自我作祖、ロマン主義などの戯曲理論を重視し、当時及び後世に大きな影響を及ぼした。
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明代は戯曲創作と戯曲研究の豊作の時代であり、特に明中葉、作家、曲論家が輩出し、佳作が多数あった。紹興を中心とする越中一帯の曲壇に、徐渭をはじめとする「越中派」という戯曲理論流派が現れた。「越中派」は大体一人で劇作家、曲論家を兼ね、戯曲創作、評論及び戯曲美学などについて同様の、または類似した見解を持つ。その代表的な人物は、徐渭、王驥徳、呂天成、祁彪佳、孟称舜、凌蒙初などである。上述の徐渭の「南詞叙録」のほかに、「越中派」の主な論述は次のとおりである。
「曲律」:王驥徳作。王は字は伯良、号は方諸生で、会稽(今の紹興)の人である。「曲律」は中国で最初の種類が完全で論述が全面的で、構造が厳密で自ら体系をなす戯曲理論の専門書である。全書は40章からなり、戯曲理論の各方面に及び、重点的に戯曲理論を研究し、徐渭の「本色論」を絶賛した。
「曲品」:呂天成作。呂は字は勤之、号は郁藍生で、余姚の人である。「曲論」は明代戯曲作家、作品の評論書であるのみならず、現存の最も古い伝奇作家略伝と目録である。その中で提唱された詞采、音律「双美」説は大きな影響力があった。
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そのほか紹興の人、祁彪佳の「遠山堂曲品」「遠山堂劇品」、凌蒙初の「譚曲雑札」、張gの「衡曲塵譚」、孟称舜の「古今名劇合選序」などがある。「越中派」の曲論は、当時戯曲創作と評論に存した問題を直接に批判し、俗悪な流行を是正する働きをし、後世に大きな影響を与え、清初の戯曲理論家李漁にまで直接に影響した。李漁(1610-1680)は字は謫客、号は新亭樵客などで、蘭渓の人である。終生出仕せず、戯曲創作と戯曲活動を行なった。作品に「笠翁十種曲」及び戯曲理論集「閑情偶寄・詞曲部」がある。「笠翁十種曲」には伝奇劇作十種を収録している。即ち、「風筝誤」「奈何天」「比目魚」「慎鸞交」「玉掻頭」「巧団欒」「鳳求凰」「意中縁」「蜃中楼」「憐香伴」などで、「風筝誤」が最も有名であり、今でもよく戯曲舞台で演じられている。「笠翁十種曲」は舞台性が強く、演じやすく、筋が新奇で言葉が分かりやすいが、繊細過ぎる嫌いがある。
李漁が後世に最も大きな影響を与えたのは、戯曲理論である。「閑情偶寄」は飲食、道楽、花木、居室、声音、詞曲などに関する著書である。そのうち、「詞曲部」「演習部」「声容部」などは演劇創作、舞台芸術などについて、少なからぬ透徹した説があり、中国芸術理論発展史において光り輝く里程標と称されている。彼が提出した「立主脳」「減頭緒」「密針線」「審虚実」などの主張は、伝統的な戯曲創作実践に対するまとめであり、舞台実演の立場から論じ、問題に焦点をあわせた実践的な主張であり、当時の戯曲創作と演出に影響しそれを指導したのみならず、当代の劇壇にも参考になるところが多い。李漁は清代中国戯曲理論の集大成者である。
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清康乾時代、政治が明朗で商品経済が発達した。日増しに世が治まり、昆劇の公演は非常に盛んであるが、曲壇では花鳥風月、才子佳人の悲しみや喜び、出会いや別れの色恋話の影響から抜けられず、常套的なものばかりで伝奇創作も型にはまり、生気がなかった。その中で、「南洪北孔」が二個の彗星のように空を流れ、卓然と立ち、群を抜き、伝奇現実主義創作の芸術的高峰に登りつめた不朽の芸術的典範となった。「南洪」は浙江出身の劇作家洪昇と彼の戯曲大作「長生殿」である。
洪昇(1645~1704)は、字は方思、号は稗畦で、銭塘(今の杭州)の人である。大作「長生殿」に災いされ、出仕後まもなく罷免され、それ以来、貧乏な生活を送った。洪昇は「長生殿」をはじめ、「青衫湿」など伝奇12作品、雑劇「四嬋娟」などを著した。「長生殿」は十余年かけ苦心して完成した作品で、唐明皇と楊貴妃の生死の恋を描き、完成すると、当時の梨園子弟が相次いでそれを演じた。「一時朱門綺席、酒社歌楼、この曲ならずば奏でず、そのため祝儀が増価した」ほどである。「長生殿」は皇帝と妃との恋を当時の「安史の乱」という社会現実に結び付け、「来世に垂戒」しようとし、寓意が深刻であった。舞台割付が精美で謹厳であり、伝奇の典範とされ、曲辞音律とも、ひときわぬきんでていた。「弾詞」が奏でられると、「家家収拾起、戸戸不提防」と言われた(「収拾起」は李玉「千忠録・惨睹」[傾杯玉芙蓉]の最初の三文字で、「不提防」は「長生殿・弾詞」[一枝花]の最初の三文字である)。世に出てから、ずっと劇壇で流行し、長期間演じられ衰えを見せない。「定情」「驚変」「罵賊」「聞鈴」など幕は、南北昆劇のレパートリーである。 |
清末、戯曲劇壇で、予測できないほど激変し、各調子が競争し、絶えず伸びたり縮んだりして百花咲き乱れる局面を呈した。「戯曲の揺り篭」と称された浙江では、深くて厚い文化的土台と戯曲の蓄積により、各地方とも小戯が雨後の筍のように次々と現れた。比較的に有名なものに、寧波灘簧(甬劇)、湖州灘簧(湖劇)、余姚灘簧、三脚戯(睦劇)、武林班(杭劇)、滑稽戯などがあり、種類が多く、最も発展が目覚しく有名だったのが越劇である。
越劇は、紹興地区の?県に生まれ、最初は「小歌班」「的篤班」「紹興戯」などと呼ばれ、30年代後期に紹興大班(紹劇)と区別するため、紹興が古代越国であったことから、越劇と改称された。越劇は清代?県農村の「沿門唱書」という演芸から生まれ、曲調は「四工合調」「吟哦調」で、男班越劇、男女越劇、女子越劇などの三つの時期を経ている。三十年代、上海に進出すると、「三花一娟」などの優秀俳優が現れた。1942年、袁雪芬が率先して「越劇改革」を提唱し、琴師周宝才と共同して[尺調][弦下調]などの基本的曲調を創出し、幕表制に学び、新劇、映画などの表現法を借用し、清新優美で詩情画意に富んだ芸術風格を形成し、戯曲花園で一本だけがひときわ秀でて一躍全国的大劇になったのである。八十年代初め、長期間放置や破壊された多くのものが見直される中で、文芸「二つの百」(百花斉放、百家争鳴)方針に導かれて、大量の「小百花」が台頭し、越劇に新鮮な血液を注入した。茅威濤、何英、董柯?、何賽飛、方雪?などをはじめとして創立された浙江省小百花越劇団は、西湖湖畔に咲き始めた芸術的鮮やかな花である。杭州、紹興、寧波などにも「小百花」は次々と現れ、越劇の後継者が多く、喜ばしい情勢になってきた。
民国初期、浙江の演劇創作は「地滑り」し、舞台が沈黙し、賑やかな繁華ぶりは見られなかったが、曲論では時代的な大立物が現れた。中外にその名を知られる王国維である。
王国維(1877-1927)は、字は静安、号は観堂で、海寧塩官鎮の人である。有名な文史学者、戯曲史家である。一生、著述が多く、「曲録」「宋元大曲考」「戯曲考源」「優語録」「古劇脚色考」「宋元戯曲史」などの専門書を著した。中でも「宋元戯曲史」は、比較的に科学的な方法で、宋元戯曲を研究対象とし、全面的に中国演劇の起源と形成、芸術的特徴及び業績などの一連の問題を考察、論証した。古典戯曲研究の最初の専門著書であり、中国文化史の空白を埋め、戯曲という新学科を開いた。
建国後、浙江戯曲は「百花斉放」と同時に、「新しきを出す」に大きな成果を上げ、全国の戯曲でもリードシップを取り、浙江戯曲史の新しい一ページをめくった。浙江昆蘇劇団は「長生殿」「十五貫」を改編し公演し、新しい気風を打ち出し、大きな影響をもたらした。特に「十五貫」の成功した改編は、1956年の北京公演で、各界から好評を博し、「街中『十五貫』で持ち切り」の空前の盛況を呈した。周総理は「浙江は大変いいことをした。芝居一つで一つの劇種を救ったのだ。」と賞賛した。人民日報は社説を発表し、成功例として全国に押し広げようと呼び掛けた。五十年代、浙江戯曲は盛況が空前で、全国的に反響の大きい優秀な伝統劇を整理し創作した。例えば、「天下第一橋」と称される?劇「断橋」、紹劇「孫悟空、三たび白骨精を打つ」、昆劇「西園記」、越劇「?脂」「于謙」などが芸術的秀作である。
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「文革」時期、浙江戯曲界は百花が散り、戯曲事業はかつて史上に例を見ない打撃を受けた。八十年代になり、省小百花越劇団が創立され、浙江戯曲も全面的蘇生と繁栄へと進み始めた。
劇団は全省の60以上の劇団、3000名以上の俳優、400名以上の学生から40名の優秀「小百花」を選抜して創立したものであり、全省で最もよい脚本家、監督、作曲者、舞台美術家などを集めた。劇団は青春の美しさを芸術的創造に寓し、古典戯曲に現代舞台の総合的美的感覚を付与した。茅威濤をはじめとする優秀な演芸人材が出現し、「西廂記」「五女の長寿祝い」「紅糸錯」「漢宮怨」「陸遊と唐?」などの優秀作品を創作した。
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全省の戯曲創作はかつて前例を見ない繁栄局面を呈した。今現在、浙江省で18名の俳優が中国演劇最高賞「梅花賞」を受賞した。越劇「荊釵記」「梨花情」「寒号鳥」、紹劇「咫尺霊山」、?劇「崑崙女」及び昆曲「張協状元」などの優秀作が創作され、好評を博し、中央宣伝部「五つの一プロジェクト賞」、文化部「文華賞」などの全国的な賞を受賞した。浙江小百花越劇団の「西廂記」は戯曲最高賞――中国戯曲学会金盾賞を受賞した。2003年、浙江省は第七回中国芸術祭を主催することになり、現在、一部の優秀作品を仕上げ中で、浙江の演劇舞台は発展の気運に満ちている。(項暁燕)
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